娘は、直ぐに出て行けと私に凄んだ。言われなくてもこんなところ…。
どうやら大家一家は夫婦で商売をしており、朝からそこへ出向いて家にはいない。倅が一人居るようだが、これも多分勤め人で出社している。隣りの部屋は空いているし、ということは、普段は私とこの得体の知れない娘しかここには居ないのだ。
転居には礼金が新たに発生する。親に仕送りをして生きていた私としてはまことにもったいない限りだが、このようなことで、転居を決意せざるを得なかった。髪の毛のことなど、もうどうでもよくなった。出来るだけ早くここから出ることだ。ここを紹介してくれた不動産屋に駆け込んで事情を話したら、やっぱりという顔をしていた。
「ああそうですか、できるだけ勤め人の方が良いとは確かに言っていたけど、うーん…」
不動産屋はそう言ってため息吐いた。それなりの事情を知っていたのだ。だがまさかと言う感じでもあったのだろう。この不動産屋は、例えば二年ごとの更新の折でもうちを通さないで良いと言っていて、そんな意味では悪い男ではない。それまで居たアパートでは大家が別にいたので更新の手続きは不動産屋で行った。大家に礼金二か月、不動産屋に手数料として一か月分払っていた。場所にもよるのだろうが馬鹿げていた。
不動産屋は、ちょっと離れているがと言って文京区のある場所の物件を出してきた。建物は古いが借家式で大家とは棟続きだがアパートのような幾つも並んだ形ではなく、これならと思った。
出る前には言ってもらわないと。大家はそう言った。お袋さんだ。何度か顔は合わせているが、なるほどこうやって改めて見ると全体の顔つきやゴワゴワの髪の毛など娘とよく似ている。ただ、こちらがやや温厚なだけだ。
出て行けと仰っているのは娘さんなので…。確かそんなやり取りがあった。以前に住んだ人が乱暴で、娘も神経質になっているのよ、とかの言い訳をしていた。が、もうそんなことを聞いてもしょうがなかった。
赤帽に二度来てもらって荷物を運んだが、それでも残った分を友人にわざわざきてもらって一緒に運んだ。出る最後に髪の毛を思い出した。出現するままに何本かテープでまとめてあった。それを更に上からテープで巻いて壁に貼り付けて部屋を明け渡した。自分としてはちょっとした腹いせだった。
友人には居酒屋で多少のお礼をして、今にしては不思議だが、何故か髪の毛のことは言わなかった。きっと頭のなかはそれどころじゃなかったのだ。むかっ腹が立っていた。
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