2025年3月25日火曜日

美の山公園の心霊スポット?

先日某居酒屋で何気にそんな話が出た。美の山公園に妙に陰を感じると。過去に登ったことのある人たちが揃ってそういう。話の何から始まったのか覚えていないが、そんな話を聞いたらちょっと調べたくなる。



子供の頃にハイキングで登ったとかの人もあって、あまり陽性の明るい雰囲気には感じなかったと。 お店の女将、その娘さん、居合わせた客。これらが揃って合わせるのだ。いったい雰囲気の何がそんなに陰気めいて感じたというのだろうか。或いは客と女将とで私を担ぐために話を合わせたのだろうか。

2025年3月22日土曜日

異音続く

昨夜、というより今朝の三時ごろ目覚めた。トイレに起きてもう一度寝ようと思ったら、遠くで例の異音がしているのに気づいた。



遠くだから音は小さいが、それでもはっきりとわかる。しかも聞こえてくる方角が変わったりしている。音の強弱もあって、遠くなりにやっぱりこっちへ近づいたり遠ざかったりしている。

夜中のことであるし、音の大きさからして外へ飛び出しても何かが掴めることはない。今までだってわかったことなんてないのだ。ただ方向と音の強弱だけを聞こうとしたが、その内に眠ってしまった。

しかしどういうことだろう。ドアを揺するくらいに大きな音だったりすることもあり、遠くで鳴っていることもある。しかも方向はどうやら一定しない。

この音に気付いている人が一人でも居ないかそれとなくなるべく多くの人に訊いてみようと思うが、まあくたびれ儲けだろう。近所は誰も鈍感で害さえなければ何があったって気にしない。

しかし人間は僅かな違いにも気づくことは大事だ。なんといってもこれは好奇心の問題でもある。

時間と方角と音の大きさに法則性がない。以前飛行機かもと言ったが、もっと例えるなら地下で工事でもしている感じだ。あの道路工事特有の音。まったく一緒ではないが似ている。

だが、近所で道路工事なんて見かけない。年末に多くなるというあれだが、周辺でも見かけたことがない。もし地下工事ならとんでもなく広い地下空間だろう。

あり得ないと思う。

2025年3月13日木曜日

異音またしても奇怪なり

前の日曜日、つまり九日だったか、昼過ぎだったと思うがかなり大きい異音が轟いていた。それは何種類かあって、遠くから近寄って来るかと思えばパッと止まる。それなりの時間それを繰り返した。これまでより大きいというのは、戸板を揺さぶったからだ。カタカタと音がした。空気を振動させるくらいなのだ。


何種類もあるというのはどういうことだろうか。音を発するものが幾つもあるということでしかない。それが混ざって鳴っていたりする。

これはかなり頭を悩ませる。以前音の出所をついに見つけたと思った。多分どこかの家屋で発電機のようなものを動かしている。実はもう何十年も前だが、発電機で暮らしている人が近くに存在した。どういう仕組みか知れないが、いくらかは節電していたのだろうか。その音と似ているのだ。と言ってもエンジン音だから似ているのも当然かもしれない。

こういうことがあると、近所に訊いてみるが、誰も知らないという。鈍感に生きているとしか思えないが、人は誰しも注意の向きどころが違うのでそれはしょうがないかも知れない。しかし誰も、というのは奇妙だ。

色々推理するが、振出しに戻った。音の出所は結局わからない。時間も関係ない。夜でも昼でも。とするとやはり自衛隊辺りの航空機かとも思うが、突然エンジンらしき音がピタッと止まる。飛行機なら落ちているだろう。しかも遠くから段々接近してくるような聞え方をすることも多い。そして随分近くへ来たと思ったらピタッと止まる。それを繰り返す。

害、という程のことはない。それだけのことだ。自分が困らなければ人はその程度のことにあまり関心は持たない。だが、変ではないか。何故音に遠近があり強弱があり種類があり、ピタッと止まったりを繰り返す。

何か理由があるはずなんだ。

2025年3月3日月曜日

ある日ゴミ屋敷になる不安

私は子供の頃から整理整頓が苦手だ。その事では何度も親にこっぴどく叱られてもきた。でも治らない。今も整理が悪い。ブログの整理もきっと他人より悪いと思う。でも生きていて、そのことで他人にはそんなに迷惑をかけていない。そんな意味では普通に世間の範囲だ。しかしこれが明らかに逸脱してくる理由はなんだろうか。



原因はあれこれ言われている。ネットをググればすぐにわかる。でも判っていても解決できないからこうなる。分かっていても解決できないメカニズムがわからないのだ。

私は必要なものに関しては小心なほど神経質だが、適当なものは適当で良いとする性格だ。部屋の掃除などではプロにでもならない限り飯は食えない。だから忙しいと後回しになる。でもさすがにとおもったら適当な時期に掃除はするし、時には模様替えを兼ねて大掃除をする。何日もかかる。でも精々半年一年でくたびれる。そんな日常を生きている。しかしだからといって世間でいうところのゴミ屋敷にはならない。

ハッキリした境界は、日々のゴミ出しをしているかどうかだ。これが続いているなら心配はない。精々片付いていない程度だ。でもこれがなくなったらそこからは完全に変わってしまう。

捨てられない性格だからとか、そんなことがよく言われているが、確かにそれは一因ではある。でもそれだけではゴミ屋敷にはならない。普通に世間のゴミ屋敷は、もう出入りすらままならず、車もとっくに朽ち果てて、多分風呂もトイレも使えない。実際にそうなっているところがある。だから、自分の尿をペットボトルに入れ始めたりする。

でも、ウンチはどうするんだ。第一ペットボトルだって永久にあるわけじゃない。どこかで足りなくなる。風呂だってとっくに使えない。先日出くわしたところは近所に買い物ができる施設がない。あっても遠い。銭湯もない。それでまだ人が住んでいるという。そんな状態でどうして生きていられるのか、何を食べているのか、とても不思議な部分だ。

話は多少長くなるので続きにする。